amzonで対話劇という僕にとってのキーワードが出ていたので注文して読んでみた。 なかなかいい本だった。なぜそうなのかがきっちり理論的に解説されているという希 有な本である。
一般的に話し言葉を含む広範な言葉の使い手(それも主体を変えながら発することが 仕事)である劇作家(戯作者、戯曲家)は非常に分かりやすい文章を書くと思う。この 本もその例に漏ず非常に分かりやすい。理論と根拠、例がバランスよく配置されて、 理論展開の順序も無理がない。のである種の演劇論に興味がある人には非常におすす めである。
余談になるが、対照的に、CGアーティスト(例は挙げないが)には独断的で分かりにく く、論理構造がはっきりしない文章を書く人が非常に多いようだ。ホームページを持っ ているCGデザイナーも多いが、長文かどうかに関わらず、論理的構造に基づく構成が できてない文章に当たることが多いと思う。また、CGの雑誌なんかを見ていてもそう 感じることが多い。最近は、「他の方法もあるかも知れないが僕はこうやっているか ら」といったただし書きで文章を始め、ある種の厳密性を求めないように要求する文 もあるが、そのようなスタイルであることを考慮しても、言葉の使い方に無頓着だな と感じることがままある。(普段文章(「文」)読まない人に書けといってもそりゃ無 理だ。)
ここで言う文とは、(事実を時間軸で展開する)日記とか(感情を表現する)感想文では なく、論理展開がその構成上不可欠なもののことです。 対話能力とか、ディベート能力、2chで言い負かされない能力とも違うつもりです。しかし、これは絵画芸術は言葉を必要としない、対極的な位置にあるから、そういう 人たちだということを意味しているわけでもないのだ。というのも、アーティストあ るいは芸術家、美術家にはちゃんとした文章を書く人が多いようだから。ただしここ で言う芸術家というのは主に年輩の人々なので、ひとえに人生経験の量の違いから生 じたものかも知れないが、とにかく不思議なくらいこういう傾向があると思う。
余談が続くが、じゃあ小説家の文章(小説以外の何かを説明する文章)はどうなのかと いうと、感性重視の私小説の作家だと全然だめなような気がするが、実例が少ないの で断言はしない(まあ、傾向としてなんとなく理解して貰えるだろうか)。また、評論 家の文章は、そこに出現する概念が難しいので、なんとも言えない。柄谷行人はまだ ましな方か?
そして、学者が一般向けの本を書くとなんというか授業を連想させるような、一種独 特のリズムになぜかみんななっちゃう、そしてそれが分かりやすくするための読者 サービスだと思っているようだ、というのはあまりにも乱暴な総論だろうか。
(こんなことを書く僕は、後で見返すと読点の場所を全部変更したくなるような文章 しか書けないのだが…。)
もう一つ余談だが、その一方で、劇作家の描くイラスト(図式表現)は意味不明なこと が非常に多いと思う。両方をこなす人はやはり特殊な経験の持ち主ということになる だろうか。こいらへんはポストモダンな批評家とかの独壇場かも。 劇作家に較べると、むしろ学者の方が得意かも(浅田章は評論家ではなくこっちか?)。
問題三 なぜ、人は、「リアル」な演劇、「リアル」な台詞が書けないのだろう? 人間を「リアル」から遠ざけるものは何だろう? (p.22)
逆の見方をすれば「話し言葉を書く」という行為は、いにしえより現代に至るまで、 劇作家という数少ない職業だけが占有してきた仕事なのだ。これは長らく、劇作家の 秘技であったと言ってもいい。 (p.28)
「伝えたいことなど何もない。でも表現したいものは山ほどあるのだ」 (p.37)このセリフいいね。
テーマは「有害」だという主張は北村想氏もしていた。とにかく経験値が非常に求 められる表現手法であることは間違いない。
ふだんの日常生活のなかでは見ることのできない精神の振幅を描くなら、演劇は、ま だその役割を終えることはないだろう。(途中略)この二つの要素のどちらか一つで も満たしていれば、伝えたい主義主張、テーマなど何もなくても演劇は成立するのだ。しかし、演劇を別の言葉に置き換えても成立するのではないか。 絵画は? 私小説は?
2章の話はフレーム問題?
情報量の違いが情報流を産み、従って対話・会話が成立する。そして劇が成立する。 昔の北村想氏の本(科学となんとか)にも情報という言葉が出てきていたが、あの
会話と対話の違い。

